ワジョリンの料理の歴史🇯🇵
わたしの料理歴について、ときどきお客様に聞かれることがあります。
今日はすごい長文でそれについてお答えしておこうと思います。
まず、わたしの家では子供が料理するのが禁止でした。理由は怪我したり火が出たりすることを恐れてですね。
わたしが小学校2年のときに、我が家はボヤを出しました。以後とても警戒が強まり。天ぷら油が原因だったので、滅多に揚げ物を家で作らなくなりました。
そして家族のキャラ的に、子供が料理を作って失敗したものをニコニコして食べてくれるほどお人好しではなかったというのもあります😆
今でもそうなんですが、料理に対する批評がめちゃくちゃ厳しい。
普通に美味しくても、もっとこうすればいいという話に必ずなります。美味しくなかったら徹底分析されます。危険な家族。
そして母はとても料理を面倒くさがる性格でした。この世代でいて、自由が丘の魚菜学園の卒業生なんで、当時としては珍しいほどの教養があったはずなんですよ。
やればできるんです。が、滅多にやる気を出さない。前述のようにクリティカルな家庭環境が彼女をそうさせたのかもしれません。
結果、同じメニューの反復と、買ってきたお惣菜(お肉屋さんのコロッケなど)が定番でした。
お惣菜を買ってきた日も副菜や味噌汁は作っていたので、毎日料理はしていました。しかも7人家族で一日三食です。
メンバーは祖父母、父母、我々三人兄弟。そりゃ大変だったに違いないです。
我が家は江戸っ子の家系で、濃いめで甘辛い料理が中心。それがわたしにはつらかった。
洋食が好きなので、日曜日に蒲田の駅ビルでミートソースを食べさせてもらうのが大きな楽しみでした。
料理については全く母に教わることもなく、調理実習は地獄の時間。家庭科の先生に、「あなたそんなに料理もお裁縫も何もできなくて将来どうするの?」と真顔で聞かれたのが中学時代の思い出🤣
時は流れ大学生になり、ようやく料理をしてもいいことになりました。
母が持っていた「365日のおかず」という書籍を何度も何度も熟読し、その中から作れそうなものを作ることに。
当時の料理本は現代ほどの親切さはなく、ひとつの料理のレシピがほんの200文字程度にまとめられ、写真は仕上がりの1枚のみ。分量も不明確でした。初心者が推測で作るから、失敗します。
家族に怒られながら、試行錯誤の日々。短期間に同じ料理を何度も作ることで、コツが掴めることを発見しました。
それで大学卒業の頃には、ある程度の基本的な家庭料理は作れるようになったのです。
自分でもしみじみ美味しいなと思える料理が作れるようになったきっかけは、山本麗子さんの「101の幸福なレシピ」という本です。当時20代前半。
麻婆豆腐やサラダ、唐揚げ、キャベツ煮込みなど、この本のレシピ通りに作ると自分でも驚くくらいに美味しくできました。
ようやく自信がついて、和洋中さまざまな料理を自分なりに研究してベストなレシピを目指すように。
小林カツ代さんの本をはじめ、家庭料理のレシピ本を少しずつ買って参考にしました。雑誌「栄養と料理」もすごく勉強になりましたね。
同時にわたしは人生2度目の大きなダイエットを行い、栄養価やカロリーについても食いつくように勉強。その頃は料理をひとめ見ただけで何キロカロリーかわかるようになったんですよー。
ダイエットにも成功。しかし、何年かかけてリバウンド😭
当時は5人家族の夕食をほぼ毎日わたしが作っていました。祖父母が亡くなったので5人です。
料理作りたくない派の母は喜んでやらせてくれましたが、わたしが楽しそうに料理を作ること自体がイヤみたいでした。あまり長時間かけて凝った料理を作るなと言われた。
ほかの家族も江戸っ子気質で気が短かいので、「チンタラやってるんじゃねえ!」という気持ちがあったらしく、夕飯の調理はなるべく1時間以内と決められました。
のちにエスカレートして20分以内になったんですけど、その頃にはかなり上達していたので、20分で3〜4品以上作れるようになっていました。今はそんなに早く作れません🤣
家族向けの料理とは別に、自分の趣味としてインド料理を習い始めました。
なぜならわたしはインド料理がすごく好きで、お店でずっと食べていたら破産すると思ったからです。自分で作れるようにならないとまずいことになると思った。
そんな悩みを友人の村上敦子さんに話したら、「香取さんに習えばいいよ。初心者でも作れるようになるよ」と教えてくれたんです。
それが香取薫先生との出会いです。後で知ったのですが、インド料理・スパイス料理の世界でガチで日本一の先生でした。
武蔵境の教室(ペイズリー)に通い、お店で食べる以上に美味しいインド料理を家庭で作る方法を完璧に教えていただいたのです。
インド料理に限らず、この色のタイミングで、この香りがしたら、この音が聞こえてきたら、見た目でテクスチャーを捉えて、といった、体感的な料理の捉え方ができるようになったのも、すべて香取先生のおかげです。
この頃に前後して、料理雑誌にレシピが掲載されたり、フードライター的な仕事をしたりすることも増えてきました。
大手メーカーの飲料、お菓子などの商品開発も経験。30歳前後だったでしょうか。
これらはコピーライターとしての仕事の一環だったので、個人として名を出すことはほとんどなかったです。まあコピーライターってそういうもんですね。
月日は経ち、手相カウンセラーになり、当初はあまりにも貧しく、時間もなく、料理どころではなくなりました。ほぼ毎日オリジン弁当です。
ボロボロになりながらも、どうしても手相カウンセラーとして名を立てたかった。
スタートして1年で、雑誌に載ったり、予約が1年待ちになったり、テレビから出演依頼が来たりするようになり、時間とお金のバランスも取れるようになってきました。自由が丘に自分のカウンセリングルームも持てた。
ただあまりにも忙しかったので、今度は外食による癒しに頼るようになったんですよね。
仕事が終わって、夜の8時9時から料理をする気力がどうしても残せなかった。正直、足がもつれて歩けないぐらい毎日疲れていたのです。
それから数年間の外食経験は、のちのわたしの料理に反映されるに至りました。
イタリア料理、フランス料理、スパイス料理、中華料理、和食、肉料理など、それぞれ「これは究極的に美味しい」という感動的な経験を外食で得て、期せずして味の基準ができた。
そしてコロナ時代に突入。外食ができなくなり、もうこれからはウーバーイーツしか食べられなくなるのかなと思ったところへ、ラボンヌターブル中村和成シェフによるインスタライブお料理教室「ハプニングキッチン」が始まったのです。
マジでこれは運命的な出会いでしたね。
中村シェフは、緊急事態宣言中ほぼ毎日休みなくハプキチをやってくれました。すべてのレストランが閉まり、自分の仕事もほとんど開店休業状態の中で、ハプキチで習った料理を作ることだけが生きる希望という日々。
一日の中で、自分に「やることがある」ということが、どんなに人の心を救うことか。
なおかつ中村シェフは本当に性格が良くて面白い人。だからこそファンの人たちもみんな素敵だし、優しいのです。リモートの料理教室なのに、チャット欄で交流して友だちがたくさんできました。
そんな料理仲間にも恵まれ、ハプニングキッチンは今も続いています。←今ココ。
コロナ時代、もうひとつの始まりがありました。クラブハウスです。
流行りだったから始めただけなんですが、思いもよらぬご縁がありました。料理家の皆さんとの出会いです。
それも、多数のご著書があったり、レギュラーでNHKをはじめ様々な料理番組に出演なさっているような方たち。
ウエキトシヒロさん、こんすけさん、ヤミーさん、塩田ノアさん、有賀薫さん、きじまりゅうたさんなどといった一流の方たちと知り合えました。
昨夜もクラブハウスで料理のことを話していたのですが、一般人のわたしにも分け隔てなく話をしてくださり、皆さん本当に面白くて優しい。
わたしは人の縁に恵まれているなあとしみじみ思います。
外食にしても、心から大好きと思えるレストランがいくつかあって、そこへ通う喜びがあり、その店のシェフとスタッフの皆さんが待ってくれていることを確信できる。
料理を作るにしても、教えてくれる人、一緒に楽しんでくれる人、情報交換してくれる人、わたしのレシピで料理を作ってくれる人までもが実際にいる。
料理はもうわたしにとって、趣味というより生きる証みたいになってきてますよ。
これからも美味しいものをたくさん食べて、作って、レポートする人でいたいなと思います😊
これからもよろしくお願いしま〜す。長文におつきあいくださり、ありがとうございました❤️
#料理
#おうちごはん
#和女食堂
#歴史
| 固定リンク