追悼ポンタさん。
あるところに、楠瀬誠志郎くんという歌の上手い青年がいました。彼はプロの歌手を志し、村上ポンタ秀一さんに弟子入りをしました。
誠志郎くんはポンタさんが仕事に遅刻しないように、来る日も来る日も起こしに行くのが役目。でもなかなかポンタさんは起きてくれません。ポンタさんが目覚めるまで、1時間もかかる日もありました。
「ボクがこれからもずっとポンタさんを起こさなければ、ポンタさんが仕事に行けなくなってしまうぞ。これはとても大切なことを任されているんだ。いっしょうけんめいやろう」と、誠志郎くんは思ったのです。
自分の作った歌をカセットテープに入れて、ポンタさんに何度も渡しました。でもポンタさんがそれを聴いているのかどうかさえ、わかりません。それでも誠志郎くんは、いつかポンタさんに自分の歌を聴いてもらえると信じて、曲を作り続けました。
何年か経ったある日、誠志郎くんがポンタさんを起こしに行くと、お布団の中はもぬけの殻。ポンタさんはもう仕事に向かったようです。
初めてのことに誠志郎くんが驚いていると、ポンタさんからこう言われました。「誠志郎、もう明日から来なくていいよ」
誠志郎くんはクビになったと思い、それはそれは悲しい気持ちになりました。
でも、次の日の朝。日本の大手レコード会社の全部から、「楠瀬誠志郎さん、うちの会社からデビューしませんか?」という電話がかかってきました。全部のレコード会社からです!
誠志郎くんがポンタさんに渡していたカセットテープは、いつの間にかレコード会社の人たちに聴かれ、認められていたのです。
誠志郎くんは良い歌をたくさん作って、全国ツアーをし、大勢のファンの人たちに恵まれました。
そして1991年、ドラマ「ADブギ」の主題歌として採用された「ほっとけないよ」が大ヒット。名実ともに一流シンガーソングライターとして日本の音楽の歴史に名を残す存在となりましたとさ。
その人こそが、わたしの初代ボイトレ師匠、楠瀬誠志郎さんです。
わたしがドラマーだった中学高校生時代、大好きなレコードのクレジットには、「ドラム・村上ポンタ秀一」と大抵書いてありました。
そんな憧れのドラマーであるポンタさんと、わたしの人生を変えたボイトレ師匠である誠志郎さんが、こんなに深い縁で結ばれているのは不思議な巡り合わせだなと常々思ったものです。
ということは、「わたしはポンタさんの孫弟子⁉️」などと図々しい解釈をして、自分で自分を嗜めたこともあります。
純粋に、頂点を極めるドラマーとして尊敬しています。ポンタさんの「リズムデザイナー」というCDがとても好きです。100回以上聴きました。
すごく大きく言うと、ポンタさんがいなかったら今のわたしはなかったということになります。手相カウンセラーになった頃、声が全然続かなくて悩みに悩んだ結果たどり着いたのが、誠志郎さんのボイトレスクールだったから。
ポンタさん、誠志郎さんを歌手にしてくれてありがとうございます。おかげさまで多くの人が幸せになりました。わたしもその一人です。
心からご冥福をお祈りします。
誠志郎さんには卒業以来ずっとお会いしてないけど、またいつか会える日が来るといいなと思っています。
写真は7年前の誠志郎さんとわたし。
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