家族と等々力不動にお参りした。
皆さんは等々力不動にはいらしたことがありますか? 都内有数のパワースポットと言っていいと思います。あの長嶋さんも、ご病気で倒れる前は、毎日早朝散歩をして等々力不動にお参りなさっていたそうですよ。
私は子どもの頃からよく行っていました。とても懐かしい、思い出の場所です。
正面の山門から入り、本殿でお参りしたあと、左脇の急な階段を下りて渓谷の散歩道に出るのは、子どもの頃の私には大冒険で、なんともワクワクした気分になったものです。
階段を下りきった場所に、ちょっとしたお茶屋さんがあって、そこで苦い抹茶を飲ませてもらうのが楽しみだった。「今日は飲ませてもらえるのかな?」と期待しまくっていた。
まあ3回に一度ぐらいは飲ませてもらえたのだけど、「今日は寄らないよ」と言われれると寂しかったなあ。子どもだから抹茶なんて苦くて美味しいと思わないのに、「苦ーい!!!!」と大騒ぎするのが大好きだったんだ。ばかな子ども(笑)
お茶屋さんの先は滝行をする滝打ち場があり、その場所のちょっと怖いような、ひんやりした雰囲気も好きだった。
もっと先まで行くと、都内とは思えないようなせせらぎの音を聴きながら、川縁を散歩できる。「この散歩道が永遠に続けばいいのに」と思ったものだ。ちょっと足場が悪くて、「もしかしたら転ぶかも!」というスリルも、都会っ子の私には魅力的だった。
大人になってからも、ときどき訪れている。
今日お参りをして、そういえば前回ここへ来たときは人生のどん底だったのを思い出した。なんとか這い上がれないだろうかと思い、護摩を焚いてもらったのだった。5年ほど前かしら。
そのとき護摩に祈願したことは、今になってみるとすっかり叶っている。
当時の私は、絶好調だったはずのコピーライターの仕事がパタリと勢いを失い、一体どうやって生きていったら良いのか悩んでいた。
振り返ってみれば、手相の仕事に導かれるために、そちらの仕事が強制終了になったのではないかと思うのだけど、当時はそんなことに気づくはずもない。文章を多少読みやすく書けることだけが唯一の取り柄だと思っていたものだから、コピーの仕事の依頼が減ったのは、相当の失望感であった。はっきり言って絶望だ。
私はそのとき、仕事をいただけることのありがたさを、心から思い知った。それまでの私は、断っても断っても仕事が押し寄せてくるほど仕事が順調だったのだ。「私に書いてほしいなら、やってあげてもいいわよ」ぐらいの気持ちになっていたかもしれない。そんな過去の自分の姿を、どんなに悔いたことだろう。
当時のある日、等々力不動にお参りした。家にいても悩むばかりで死にたくなるから、気分転換にいつも散歩をしていたのだ。
私が護摩に託した祈願は、「健康的な精神を保ち、全力を尽くし、ひとつひとつの仕事に心からの感謝を捧げる日を迎えられますように」ということだった。
仕事の内容が変わるとは思いも寄らなかったけれど、今はおかげさまでこの祈願の内容通り、自分なりに全力を尽くし、感謝の気持ちを忘れずに生きられるように変わったと思う。なんてありがたいことなんだろう。
すごくよく覚えているシーンがある。暇で暇で、テレビを見ていた私。二十歳ぐらいの男の子が、住み込みのアルバイトをして、朝から晩まで肩で息をするほど目まぐるしく働くルポタージュ番組が目に入った。
彼の一日の終わりは、お風呂から上がり、下着を着けて、なだれ込むようにベッドに飛び込み横になる。「ハァッ! 疲れた!」と言ったかと思うと、もう次の呼吸では眠りに入っていた。
この人のことを、本当に羨ましいと思った。働いて、疲れて眠る。人間として、こんな幸せなことがあるだろうか。だったら私も家で仕事を待ってばかりいないで、アルバイトでもすればよかったのに、どうしてもそれができなかった。
売れっ子のコピーライターだったというプライドもあるし、それ以外の仕事をする自信もない。何より、自分はコピーライターではなくなってしまうというのが怖かった。アルバイトをしたってコピーライターじゃなくなるわけじゃないのに、ずいぶんばからしいことにひっかかっていたなと今では思う。
そしていよいよコピーの仕事を諦めて、他の仕事の面接を受けに行こうと決意した矢先に、手相を見る場所を与えられた。ひょっとして神様は、私がこれをやるしかないと思えるように、道筋を計画をしていたのだろうか。
今日私は、護摩に「御礼」と書いて奉納した。5年前、いつか願いが叶ったら、御礼を申しに参りたいと思っていた。こうして多くの神仏の助けをいただき、たくさんの方たちとのご縁をいただき、私は今こうして生きている。心から感謝したい。
神様ありがとう。皆さまありがとう。家族も友だちもお客さまも、こうして日記を読んでくれてる人も、みんなみんな、どうもありがとうございます。